岐路に来た大谷翔平選手の「二刀流」 ――「二刀流」はさらなる進化を遂げるのか・「素人」がどう関われるのかーー

 米国メジャーリーグMLB)、アメリカン・リーグカルフォルニアエンゼルスに所属する大谷翔平選手(28)の評価が試される時期に来たようだ。大谷選手は、入団6年目、打者では指名代打として、投手としては中5日の間隔で登板する「二刀流」で有名である。今年(2023年)は、投手では6月4日現在で、12回登板し5勝2敗、防御率3.30、打者としては、58試合に出場し、打率0.274、本塁打15本である。プロの世界で投手と打者の両方で成績を残すことはまれであり、評価は高い…はずであった。

 しかし、「二刀流」のほころびは、投手成績に表れてきた。4月は4勝したが、5月は1勝、特に6月2日のアストロズ戦では6回9安打、5失点で負け投手になっている。18人の打者に対して半数から安打を打たれているのは今までなかったことだ。同じ地区のアストロズは昨年ワールドシリーズ制覇をした球団だが、大谷には後半辛酸をなめた。それゆえ、十分な「大谷対策」をして、その成果が実ったといえる。しかし、それまでの対戦相手も、大谷の決め球である「スウィーパー」(大きな変化をするスライダー)を狙ってきていた。

 このボールを投げるときに投球フォームが異なることは以前から指摘されていたが、それに半年で対応してきたのはさすがにプロである。残念ながら、大谷はまだ相手打線の攻撃にまだ十分対応していない。ここで、アストロズに完膚なきまでに攻略されたことをどの程度認識して対応できるか。KOされて1週間でまたマウンドに上がらなければならないエンゼルスの投手事情を考えると状況は極めて厳しい。

 一方、打撃はアメリカン・リーグ2位に本塁打成績では位置している。しかし、好投手に出くわすと沈黙してしまう。3回に1回安打が出れば「3割打者」として高く評価される。それほど、打撃は難しいとすれば、好投手に凡退するのも仕方のないことかもしれない。だからこそ、アストロズのような組織だった攻撃が求められる。しかし、エンゼルスが組織だった攻撃をしないチームのように見える。そのため大谷の負担はより大きくなる。ニューヨーク・ヤンキースのジャッジ選手は19号本塁打を打ちリーグトップだが、打つべき時に本塁打を打っているように見える。ヤンキースは有名かつ強力な球団でチーム内の競争も厳しい。しかし、組織的な攻撃力を持っている。大谷選手との差は、技術的なものはともかく(それに裏打ちされているともいえる)、組織的な攻撃力に支えられているのではないか。

 近年、野球においてどのレベルでも打撃が向上しているといわれる。機械の充実がそれを加速させている。他方、投手は機械では補えないとされてきたが、科学的トレーニングの向上が100マイルの速球と多彩な変化球を生み出し、有力な投手を登場させてきた。

 残されているのは、投手と打者との「駆け引き」であろう。多くの情報をどのように消化させて対峙するか、そのときどういった技術が有効なのか、どこで組織的な力を使うかなどが問われてくるのだろう。大谷選手の「二刀流」はマンガのようなフィクションをも超えたといわれてきた。「スウィーパー」という「魔球」を登場させてかえって、フィクションとしての野球漫画に堕してきたのではという印象を持つ。マンガの世界で「魔球」はいつか打たれる。それは「魔球」に依存するからだ。いま、ライバルたちの反撃に遭遇して、「魔球」をいったん捨てることも必要ではないか。正しくは「魔球」に依存するスタイルを捨てる。投手の基本はフォーシームやツーシームといった「ストレート」であり、「スウィーパー」のようなスライダー系列の球種を投げすぎると、「ストレート」の威力を欠くといわれる。

 「魔球」依存からの脱却とは、スペックの差で勝負するー「駆け引き」--ということにもなる。つまり、「魔球」という絶対値の高いボールを投げ続ける必要はなく(事実絶対値が下がってきているから打たれている)、局面ごとの打者とのスペックをわずかでも上回ればよい。その方法を選択することではないか。経験がものをいうとはそのようなことなのだろう。

 …と書いてきたが、

 専門的にスポーツとして野球やベースボールをしたことのない「素人」が技術論を言っても意味のないことなのかもしれない。しかし、「岡目八目」は観客の特権である。素人は玄人の所作に対して技術ではなく、意味を加えることができるのである。見ることがすることにつながっているのは、このような「素人」の見方が「玄人」の所作につながることでもあるからである。かつては、野球好きの大人がいて、球場で滔滔と講釈を垂れていた。それを子供は楽しんで受け入れていた。見るときの「流儀」でもあった。それは、野球が牧歌的な時代だからというわけでもない。現在では、野球以外のスポーツでも、付与する意味が感情の発散に終始しているように見える。メディアの責任がここにもあるような気がする。