国防より子育てを

 ある日の毎日新聞のコラムで、今国会(第221国会)での野党の質問の仕方を責めていた。「国防と野党の戦術」(『風知草』)と題するそのコラムは、戦争を絶対にしないということを首相に確約させようとしていた野党の質問は、不意の敵襲の備えを知りたい国民の意向を無視した愚問であると断じた.戦闘行為一般の是非善悪を問いただしても意味はない、野党に国会戦術の修正を求めるというのがこのコラムの主張だ。続いて野党の国会戦略の概要は「防衛予算倍増よりも子育て予算倍増」であり、これは問題設定が誤っているとする。防衛増税を批判するなら、継戦能力の実情を問い、米軍との役割分担について反撃能力を論点とするときに問うべきだとする。理由は軍事技術の問題を具体的に問えといっているのであろう。以下首相の答弁にも問題があると論じ、与野党党首に軍事の専門家=「軍人」の声に耳を傾けよと提言する。軍事が論点なのだから、その内容について論じていけということのようだ。

 はっきり言って、要約するのに苦労した。論拠が論者の特定の価値判断を背景としており、個別的でとても普遍性とまでは望まないまでも共通性を感じないからだ。個々の表現が意味するものや論理の筋道がここまでかけ離れているのかと思うと悲しくなった。

 たとえば、このコラムでは、元自衛官が著した書の一説を引き、「軍人(=自衛官)を政治から一切切り離した戦後体制の矛盾」表現を論者の主張の根拠として使っている。

 技術論は確かに専門家の領分であろう。しかし特に軍人の声を聴けというのは、ともすれば文民統制を捨てよと言っているにも等しい。専門技術の議論をしているときに、俯瞰した立場でそれらを論ずることができるのは、必ずしもその領域の専門家が優れているわけではない。紺屋の白袴、あるいは岡目八目の例えもある。専門性の深みにはまって周囲が見えなくなる「専門バカ」は誰にでも起こりうる。軍事の専門はそうならないというはない。軍事の実務家・実践家が軍人であるなら、現実に惑溺して、その現実座標自体が動くことに気がつかなかったがゆえに80余年前の破滅をもたらしたのではなかったのか

 「国家防衛と子育て。てんびんにかけて選べる話ではない。」と言い切るコラム氏の主張を仮に認めるとしても、それがなぜ「弾薬やミサイルの備蓄状況、弾薬庫の立地問題」「新たに買う武器の基本」になるのか。「憲法国際法の問題(これも何を意味するのかがよくわからない)ではなく」となるのか。子育てを国民の生活と読み替えれば、予算配分の問題として「国家防衛と子育て」は天秤にかけることになるのではないか。だから増税の問題という論点で論じていくのではないか。それには、なぜ今国家防衛のための予算増額が必要かを問うことは常に野党にとって必要なのではないか。それは、具体的な具時の技術論に終始することは、何のために国防費の増額が必要なのかというメタ認識に常に立ち返るために必要な問いである。反対、批判はそれ自体が主張であり、「代案」である。提案に乗ることだけが議論ではない。問題の解決に至らないという主張に対しては、誰にとっての問題解決なのかと問いたい。「子育てか戦争か」「増税よりも行革を」を「大ざっぱな議論」とみなして、メタ認知を嫌がるコラム氏の姿勢がなぜ生じているのかに目を向ける必要がある。

 かつて、戦後女性に参政権が「認められた」ときに、「参政権よりも藷を」と女性たちは叫んだという(宮本、1946)。宮本は、庶民が見たことも聞いたこともない人たちによって、どこかで運営されてきた、その結末が敗戦で、食うに事欠く状況を生んだ。そんな「政治」に用はない、道理にかなった筋道で生活ができる「政治」を求め、自ら作り出そうとしていると述べる。このような約80年も前の指摘がいまだ有効であるのは、どうしたことか。庶民は日常にしか関心がない「意識が低い」とコラム氏は見ているのは80年前の議論である。

 また台湾脅威とウクライナ戦争は直接には結びつかず、そもそも台湾有事において台湾を日本が防衛するということにはつながらないと主張する人もいる(亀山、2023)。そうであるなら、コラムの論旨の性急さはある意味頷ける。つまり、問題解決の阻害を叫ぶのは怪しげな提案を認めさせたいレトリックにすぎない。

 

亀山陽司、2023、『ロシアの眼から見た日本 国防の条件を問い直す』NHK出版新書。

神島二郎、1982、『磁場の政治学 政治を動かすもの』岩波書店

宮本百合子、1946、『私たちの建設』 実業之日本社