はてなの使い方

はてなを使っているが、わからないことだらけだ。

知らない土地に来て迷子になっている感じだ。

たとえば、

他の人のブログを読んで、共感したことを書き手に示す方法がわからない。

どこかに、「交番」または「インフォメーション」、「取り扱い説明書」に似たものがあるのかもしれない。

仮に、上記のような「手引き」が見つかったとしても、

「辞書は読め、参考書は引け」のように扱うことで、問題が解決できるのだろうか。

俯瞰的にみるにはどうしたらよいのだろうか。

 

マンガ電子版

 電子書籍でマンガを読むのにいまだになじめない。

Webサイトの4コマ漫画もどき?は辛うじてかろうじて読めるが、

ストーリーマンガの電子版は、とても手が出ない。

 冊子なら、一度買ったら「無料で」読むことができるけれども、

電子書籍は、通信料と光熱費がかかる。何度も読み返す人間にとってこれは痛い。

電子化されて、マンガがますます読み捨てになっているのではないかと恐れる。

「無料で」電子版を読む方法を知らないIT無知の戯言なのだろうか。

 

  マンガ作品の新作についても、電子版と冊子体では違いがあるように感じる。新作が雑誌で連載された場合には、掲載作品全部に目を通さないともったいない気がして、有無をも言わせず読まされていた。それに対して、電子版では表紙だけで見てーー申し訳ないがーー読む気がしなくなる。これはどういった心的傾向なのか。活字のものなら、Web書評でも、面白そうと感じるものなら手に取って(検索して)読もうとするのに。

 

 

 

納豆はシンプルに

ネギとからしとほんの少し醤油をかけて食べます。

かつては、ごはんにかけたり、卵の黄身を落として食べていましたが、ごはん茶碗と納豆の入れ物と洗い物が倍に増えるのが面倒で

そのまま食べています。

温めたり、焼いたりするのは好きではありません。

子どものころから納豆を食べていますが、年を取って「香り」が少し気になるようになりました。

塾・予備校の現在に触れて思うこと

30年ぶりに塾・予備校の世界に触れた。

 数十人の生徒が教室で先生の授業を聴く「集団指導(授業)」よりも、先生と生徒が1対1、また1対2で授業をする「個別指導(授業)」が中心になっていたことに驚いた。「個別指導(授業)」は家庭教師に近い。「個別指導(授業)」では主に生徒の疑問や不明点を聞き出してそこを理解・習得させるというように教え方をする。「集団指導(授業)」でも、生徒が自ら授業内容をわかったとするのが目標であったはずだが、それを得られるのは、教師と生徒がともに優れている場合に限られていたように思う。かつての教師と生徒の授業形式で書かれた『~の科学』とか『~入門』といった本が読みにくかった(そのため内容が頭に入らなかった)のは、生徒役(聞き手)が先生役(話し手)の視点で書かれていたからだということに今気が付いた。

  新米の私は、一方的に授業内容を「表出」してしまい、伝えることすら覚束ない。これはまた、日常生活で対話をいかにぞんざいに扱ってきたかの表れでもある。伝えることは話すことだけではない。今このブログで「書く」ということも読み手を想定して書くべきなのだ。

 では、私は、誰に向けてこの文章を書いている(くべきな)のだろうか?

家庭をもって子供を育てれば何らかの形で学校教育に関わってくる。だから、高校までの教育が集団から個別になっていることはみんな知っていることだ。だからあえてブログに書く必要はないのかもしれない。

 しかし、高校までとは違ったところで教育に接してきた人間として、自分の職場が他の人からは自分が持っている職場のイメージとはずいぶん異なっていて、説明するのに苦労した経験がある。このような経験から、教育現場の理念と現実の違いを伝えることはそれなりに関心を持ってくれる人たちがいるだろう。そういう人たちに向けて書いていると自分を納得させてこのブログを書いている。

 

1年ぶりに戻ってきました。

  ブログを使って…と意気込んでいたのは今は昔。自分のユーザ名から何から忘れてしまって、やっと探し出したら1年近くたっていた。

仕事を辞め(させられ)て、新しい仕事を始めて(に就いて)半年近くたち、収入は10分の1に減った。

 年齢的に動ける時間はそれほどないのに、いまだに何も手がつかない。この日記が先へ進む一歩になることを信じてまた書き始めようと思った。

 三木義一『日本の税金 第3版』(岩波書店、2018年)を図書館で借りて読んだ。「税金の本は、『どうしたら税金が安くなるか』ということは書かれているものが多い。三木さんの本は、なぜこうした税金の制度があるのかについて書かれている」と書評にあったので読んでみた。確かにそうだった。一読して理解できる前に返却期限が来てしまったのは残念だった。(品切れであり、もしあっても手持ちがない)。税の歴史を辿るところで、学校で習う「建前」が一応はあったことを知って少しほっとした(そこくらいしかわからなかった)。もう一度借りて読んでみたい。

 このくらい税金無知はあまりいないとは思うが、サラリーマンの「源泉徴収制度」が税金無知を作っているという指摘は、同じ三木さんの『日本の納税者』(2015年)(講読中)に書かれていた。的確な情報をつかむことが世の中を生きるためには大切なことだということがよくわかる。ありすぎるほどの情報から何をとってくるか、自分が関わっていることがらの全体をわかりやすく示してくれる情報は何か、そうしたことを感じさせてくれた書だった。

岐路に来た大谷翔平選手の「二刀流」 ――「二刀流」はさらなる進化を遂げるのか・「素人」がどう関われるのかーー

 米国メジャーリーグMLB)、アメリカン・リーグカルフォルニアエンゼルスに所属する大谷翔平選手(28)の評価が試される時期に来たようだ。大谷選手は、入団6年目、打者では指名代打として、投手としては中5日の間隔で登板する「二刀流」で有名である。今年(2023年)は、投手では6月4日現在で、12回登板し5勝2敗、防御率3.30、打者としては、58試合に出場し、打率0.274、本塁打15本である。プロの世界で投手と打者の両方で成績を残すことはまれであり、評価は高い…はずであった。

 しかし、「二刀流」のほころびは、投手成績に表れてきた。4月は4勝したが、5月は1勝、特に6月2日のアストロズ戦では6回9安打、5失点で負け投手になっている。18人の打者に対して半数から安打を打たれているのは今までなかったことだ。同じ地区のアストロズは昨年ワールドシリーズ制覇をした球団だが、大谷には後半辛酸をなめた。それゆえ、十分な「大谷対策」をして、その成果が実ったといえる。しかし、それまでの対戦相手も、大谷の決め球である「スウィーパー」(大きな変化をするスライダー)を狙ってきていた。

 このボールを投げるときに投球フォームが異なることは以前から指摘されていたが、それに半年で対応してきたのはさすがにプロである。残念ながら、大谷はまだ相手打線の攻撃にまだ十分対応していない。ここで、アストロズに完膚なきまでに攻略されたことをどの程度認識して対応できるか。KOされて1週間でまたマウンドに上がらなければならないエンゼルスの投手事情を考えると状況は極めて厳しい。

 一方、打撃はアメリカン・リーグ2位に本塁打成績では位置している。しかし、好投手に出くわすと沈黙してしまう。3回に1回安打が出れば「3割打者」として高く評価される。それほど、打撃は難しいとすれば、好投手に凡退するのも仕方のないことかもしれない。だからこそ、アストロズのような組織だった攻撃が求められる。しかし、エンゼルスが組織だった攻撃をしないチームのように見える。そのため大谷の負担はより大きくなる。ニューヨーク・ヤンキースのジャッジ選手は19号本塁打を打ちリーグトップだが、打つべき時に本塁打を打っているように見える。ヤンキースは有名かつ強力な球団でチーム内の競争も厳しい。しかし、組織的な攻撃力を持っている。大谷選手との差は、技術的なものはともかく(それに裏打ちされているともいえる)、組織的な攻撃力に支えられているのではないか。

 近年、野球においてどのレベルでも打撃が向上しているといわれる。機械の充実がそれを加速させている。他方、投手は機械では補えないとされてきたが、科学的トレーニングの向上が100マイルの速球と多彩な変化球を生み出し、有力な投手を登場させてきた。

 残されているのは、投手と打者との「駆け引き」であろう。多くの情報をどのように消化させて対峙するか、そのときどういった技術が有効なのか、どこで組織的な力を使うかなどが問われてくるのだろう。大谷選手の「二刀流」はマンガのようなフィクションをも超えたといわれてきた。「スウィーパー」という「魔球」を登場させてかえって、フィクションとしての野球漫画に堕してきたのではという印象を持つ。マンガの世界で「魔球」はいつか打たれる。それは「魔球」に依存するからだ。いま、ライバルたちの反撃に遭遇して、「魔球」をいったん捨てることも必要ではないか。正しくは「魔球」に依存するスタイルを捨てる。投手の基本はフォーシームやツーシームといった「ストレート」であり、「スウィーパー」のようなスライダー系列の球種を投げすぎると、「ストレート」の威力を欠くといわれる。

 「魔球」依存からの脱却とは、スペックの差で勝負するー「駆け引き」--ということにもなる。つまり、「魔球」という絶対値の高いボールを投げ続ける必要はなく(事実絶対値が下がってきているから打たれている)、局面ごとの打者とのスペックをわずかでも上回ればよい。その方法を選択することではないか。経験がものをいうとはそのようなことなのだろう。

 …と書いてきたが、

 専門的にスポーツとして野球やベースボールをしたことのない「素人」が技術論を言っても意味のないことなのかもしれない。しかし、「岡目八目」は観客の特権である。素人は玄人の所作に対して技術ではなく、意味を加えることができるのである。見ることがすることにつながっているのは、このような「素人」の見方が「玄人」の所作につながることでもあるからである。かつては、野球好きの大人がいて、球場で滔滔と講釈を垂れていた。それを子供は楽しんで受け入れていた。見るときの「流儀」でもあった。それは、野球が牧歌的な時代だからというわけでもない。現在では、野球以外のスポーツでも、付与する意味が感情の発散に終始しているように見える。メディアの責任がここにもあるような気がする。

 

「大学崩壊」はその原因が大学自体にもある。

 田中圭太郎『ルポ大学崩壊』(ちくま新書,2023年)を読んだ。教学と経営に分ければ経営の側に光を当てたルポルタージュだ。経営に監督官庁文部科学省などの官僚および政府・政治家(特に1980年代からの「大学改革」および直近では2004年国立大学法人化,2006年の教育基本法の「改悪」,2014年の学校教育法改悪)が重要なアクターとして描かれるのは当然として,そうした外部因子から発散された人物や集団が大学を崩壊させたとしている。大学の問題といえば,殊大学教員が「世間知らず」として揶揄され,「問題児」として語られるものが多く,大学で「苦しめられた」(実は大学生活を謳歌した)人たちが企業社会をモデルに(世の中や社会の代表として)批判する(嘲笑する)のが常であった。

 それに対して本書は,そうした「世の中」のひとつの要素が大学を崩壊に導いているという視点で書き綴る。ここに本書の特徴がある。

 しかしながら,本書の「励まし」は大学の中にいる教職員には届きそうもない。「すでに遅かった」のだ。「大学政策転換の陰で苦しむ教職員や学生」(本書帯の記述)はすでに瀕死の状態にある。大学の「企業化」とも言うべき症状が,教職員や学生にも広がっているからだ。

 たとえば,教員が属する委員会で重要なものは,「教務」と「学生」と言われてきた。「教務」は教育の場として「学生に何をどのように教えるか」,大学における専門知識を伝えるところとして重要であることは言うまでもない。「学生」とは,その大学教育を支える大学生活をどう整えるか,いいかえれば学生が十分な学びができるような環境を設定するために基本的な生活習慣や学習態度を培うための情報を提供するところである。そして,この「教務」と「学生」は,研究に裏打ちされた理念やマクロな視点に立つ活動の部分を教員が,具体的な単位履修やその手続き,奨学制度,健康管理といった実務的部分を職員がそれぞれ分担していた。これには,効率や機能を度外視した側面が伴っていた。1,2年で学業をさぼりすぎていても,3年から努力すれば進級卒業は可能であった。また,4年で卒業できなくても,大学生活と外の生活を相互に行き来しながら,「生きる技術」(ライフ・スキル)や「他者と関われる技術」(ソーシャル・スキル)を身につけて卒業した者も多くいた。4年までは自分のことしか語れなかったが,留年したら他者と話が通じるようになった学生もいた。

 ところが,少子化に伴う受験生の減少が大学に効率の波をもたらした。そのモデルは企業であった。モデルとして注目されたのは企業にいる人ではなく,そこでつくられる財(製品)やサービスであった。PDCAサイクルとは製造業の「品質管理」に用いられる手法であったという。それを,大学経営にそのまま適用した。「質保証」という言葉が学内でも使われるようになった。それは,たとえて言えばまっすぐなきゅうりを育てることであり,曲がったきゅうりは廃棄の対象となることをめざすものであった。「きゅうり化」はまず学生に向けられ,次には教職員に向けられた。80年代学校崩壊には、「腐ったミカン」であったが、今度は一定の質を保てないとみなされた学生・教職員は大挙して「腐って」なくても捨てられる。「腐ったミカン」の発想が、教育界にあったがゆえに、「品質保証」が難なく受け入れられたのであろう。むろん、大学はすべての成員が満たされるユートピアではない。また、効率のみがすべてを決める効率至上主義に特化した「社会」(集団)に企業社会が向かうとするなら、そこはディストピアにすぎない。

 しかし、大学を含む学校社会が、効率化を受け入れやすい土壌があった(たとえ、それが時代の要請に敏感であるという性質――社会的遺産の伝達機能――であった)といえるのではないか。だからこそ、今では就職養成所の側面を持ち公然と、以前では、企業社会に反発していた学生個人が、ゲバルト棒とヘルメットを捨て、長髪を切り、リクルートスーツに着替えて企業社会に「融合」して(包摂されて)いったのだろう。それが遺産の継承、「大人になって」いった、のだ。成績によって判定されるのは、良い成績をとることという、すなわちそのような能力がすべてを決める「メリトクラシー」に則っている。企業社会との親和性を持つことは、就職活動に見られる「ジェンダー秩序への服属」にもよく見られる。面接におけるいわゆる「リクルートスーツ」の着用を問題視する動きに対して、問題化は個人の我儘だとしたり、生物的差異と社会的差異を論理的根拠も示さず結び付けようとしたりする発言がそれである。これらの発言がすべて大学の中から発せられているかはわからない。しかし、無条件に面接のマナーとして自然化されているのは大学にもそれを首肯する動きがあるがゆえであろう。