岐路に来た大谷翔平選手の「二刀流」 ――「二刀流」はさらなる進化を遂げるのか・「素人」がどう関われるのかーー

 米国メジャーリーグMLB)、アメリカン・リーグカルフォルニアエンゼルスに所属する大谷翔平選手(28)の評価が試される時期に来たようだ。大谷選手は、入団6年目、打者では指名代打として、投手としては中5日の間隔で登板する「二刀流」で有名である。今年(2023年)は、投手では6月4日現在で、12回登板し5勝2敗、防御率3.30、打者としては、58試合に出場し、打率0.274、本塁打15本である。プロの世界で投手と打者の両方で成績を残すことはまれであり、評価は高い…はずであった。

 しかし、「二刀流」のほころびは、投手成績に表れてきた。4月は4勝したが、5月は1勝、特に6月2日のアストロズ戦では6回9安打、5失点で負け投手になっている。18人の打者に対して半数から安打を打たれているのは今までなかったことだ。同じ地区のアストロズは昨年ワールドシリーズ制覇をした球団だが、大谷には後半辛酸をなめた。それゆえ、十分な「大谷対策」をして、その成果が実ったといえる。しかし、それまでの対戦相手も、大谷の決め球である「スウィーパー」(大きな変化をするスライダー)を狙ってきていた。

 このボールを投げるときに投球フォームが異なることは以前から指摘されていたが、それに半年で対応してきたのはさすがにプロである。残念ながら、大谷はまだ相手打線の攻撃にまだ十分対応していない。ここで、アストロズに完膚なきまでに攻略されたことをどの程度認識して対応できるか。KOされて1週間でまたマウンドに上がらなければならないエンゼルスの投手事情を考えると状況は極めて厳しい。

 一方、打撃はアメリカン・リーグ2位に本塁打成績では位置している。しかし、好投手に出くわすと沈黙してしまう。3回に1回安打が出れば「3割打者」として高く評価される。それほど、打撃は難しいとすれば、好投手に凡退するのも仕方のないことかもしれない。だからこそ、アストロズのような組織だった攻撃が求められる。しかし、エンゼルスが組織だった攻撃をしないチームのように見える。そのため大谷の負担はより大きくなる。ニューヨーク・ヤンキースのジャッジ選手は19号本塁打を打ちリーグトップだが、打つべき時に本塁打を打っているように見える。ヤンキースは有名かつ強力な球団でチーム内の競争も厳しい。しかし、組織的な攻撃力を持っている。大谷選手との差は、技術的なものはともかく(それに裏打ちされているともいえる)、組織的な攻撃力に支えられているのではないか。

 近年、野球においてどのレベルでも打撃が向上しているといわれる。機械の充実がそれを加速させている。他方、投手は機械では補えないとされてきたが、科学的トレーニングの向上が100マイルの速球と多彩な変化球を生み出し、有力な投手を登場させてきた。

 残されているのは、投手と打者との「駆け引き」であろう。多くの情報をどのように消化させて対峙するか、そのときどういった技術が有効なのか、どこで組織的な力を使うかなどが問われてくるのだろう。大谷選手の「二刀流」はマンガのようなフィクションをも超えたといわれてきた。「スウィーパー」という「魔球」を登場させてかえって、フィクションとしての野球漫画に堕してきたのではという印象を持つ。マンガの世界で「魔球」はいつか打たれる。それは「魔球」に依存するからだ。いま、ライバルたちの反撃に遭遇して、「魔球」をいったん捨てることも必要ではないか。正しくは「魔球」に依存するスタイルを捨てる。投手の基本はフォーシームやツーシームといった「ストレート」であり、「スウィーパー」のようなスライダー系列の球種を投げすぎると、「ストレート」の威力を欠くといわれる。

 「魔球」依存からの脱却とは、スペックの差で勝負するー「駆け引き」--ということにもなる。つまり、「魔球」という絶対値の高いボールを投げ続ける必要はなく(事実絶対値が下がってきているから打たれている)、局面ごとの打者とのスペックをわずかでも上回ればよい。その方法を選択することではないか。経験がものをいうとはそのようなことなのだろう。

 …と書いてきたが、

 専門的にスポーツとして野球やベースボールをしたことのない「素人」が技術論を言っても意味のないことなのかもしれない。しかし、「岡目八目」は観客の特権である。素人は玄人の所作に対して技術ではなく、意味を加えることができるのである。見ることがすることにつながっているのは、このような「素人」の見方が「玄人」の所作につながることでもあるからである。かつては、野球好きの大人がいて、球場で滔滔と講釈を垂れていた。それを子供は楽しんで受け入れていた。見るときの「流儀」でもあった。それは、野球が牧歌的な時代だからというわけでもない。現在では、野球以外のスポーツでも、付与する意味が感情の発散に終始しているように見える。メディアの責任がここにもあるような気がする。

 

「大学崩壊」はその原因が大学自体にもある。

 田中圭太郎『ルポ大学崩壊』(ちくま新書,2023年)を読んだ。教学と経営に分ければ経営の側に光を当てたルポルタージュだ。経営に監督官庁文部科学省などの官僚および政府・政治家(特に1980年代からの「大学改革」および直近では2004年国立大学法人化,2006年の教育基本法の「改悪」,2014年の学校教育法改悪)が重要なアクターとして描かれるのは当然として,そうした外部因子から発散された人物や集団が大学を崩壊させたとしている。大学の問題といえば,殊大学教員が「世間知らず」として揶揄され,「問題児」として語られるものが多く,大学で「苦しめられた」(実は大学生活を謳歌した)人たちが企業社会をモデルに(世の中や社会の代表として)批判する(嘲笑する)のが常であった。

 それに対して本書は,そうした「世の中」のひとつの要素が大学を崩壊に導いているという視点で書き綴る。ここに本書の特徴がある。

 しかしながら,本書の「励まし」は大学の中にいる教職員には届きそうもない。「すでに遅かった」のだ。「大学政策転換の陰で苦しむ教職員や学生」(本書帯の記述)はすでに瀕死の状態にある。大学の「企業化」とも言うべき症状が,教職員や学生にも広がっているからだ。

 たとえば,教員が属する委員会で重要なものは,「教務」と「学生」と言われてきた。「教務」は教育の場として「学生に何をどのように教えるか」,大学における専門知識を伝えるところとして重要であることは言うまでもない。「学生」とは,その大学教育を支える大学生活をどう整えるか,いいかえれば学生が十分な学びができるような環境を設定するために基本的な生活習慣や学習態度を培うための情報を提供するところである。そして,この「教務」と「学生」は,研究に裏打ちされた理念やマクロな視点に立つ活動の部分を教員が,具体的な単位履修やその手続き,奨学制度,健康管理といった実務的部分を職員がそれぞれ分担していた。これには,効率や機能を度外視した側面が伴っていた。1,2年で学業をさぼりすぎていても,3年から努力すれば進級卒業は可能であった。また,4年で卒業できなくても,大学生活と外の生活を相互に行き来しながら,「生きる技術」(ライフ・スキル)や「他者と関われる技術」(ソーシャル・スキル)を身につけて卒業した者も多くいた。4年までは自分のことしか語れなかったが,留年したら他者と話が通じるようになった学生もいた。

 ところが,少子化に伴う受験生の減少が大学に効率の波をもたらした。そのモデルは企業であった。モデルとして注目されたのは企業にいる人ではなく,そこでつくられる財(製品)やサービスであった。PDCAサイクルとは製造業の「品質管理」に用いられる手法であったという。それを,大学経営にそのまま適用した。「質保証」という言葉が学内でも使われるようになった。それは,たとえて言えばまっすぐなきゅうりを育てることであり,曲がったきゅうりは廃棄の対象となることをめざすものであった。「きゅうり化」はまず学生に向けられ,次には教職員に向けられた。80年代学校崩壊には、「腐ったミカン」であったが、今度は一定の質を保てないとみなされた学生・教職員は大挙して「腐って」なくても捨てられる。「腐ったミカン」の発想が、教育界にあったがゆえに、「品質保証」が難なく受け入れられたのであろう。むろん、大学はすべての成員が満たされるユートピアではない。また、効率のみがすべてを決める効率至上主義に特化した「社会」(集団)に企業社会が向かうとするなら、そこはディストピアにすぎない。

 しかし、大学を含む学校社会が、効率化を受け入れやすい土壌があった(たとえ、それが時代の要請に敏感であるという性質――社会的遺産の伝達機能――であった)といえるのではないか。だからこそ、今では就職養成所の側面を持ち公然と、以前では、企業社会に反発していた学生個人が、ゲバルト棒とヘルメットを捨て、長髪を切り、リクルートスーツに着替えて企業社会に「融合」して(包摂されて)いったのだろう。それが遺産の継承、「大人になって」いった、のだ。成績によって判定されるのは、良い成績をとることという、すなわちそのような能力がすべてを決める「メリトクラシー」に則っている。企業社会との親和性を持つことは、就職活動に見られる「ジェンダー秩序への服属」にもよく見られる。面接におけるいわゆる「リクルートスーツ」の着用を問題視する動きに対して、問題化は個人の我儘だとしたり、生物的差異と社会的差異を論理的根拠も示さず結び付けようとしたりする発言がそれである。これらの発言がすべて大学の中から発せられているかはわからない。しかし、無条件に面接のマナーとして自然化されているのは大学にもそれを首肯する動きがあるがゆえであろう。

サラリーマン川柳はいずこへ

「また値上げ 節約生活 もう音上げ」

 第一生命保険が5月25日、「サラリーマン川柳」のコンクール優秀作品10句を発表した。その1位となったのが上記の句である。今年で36回を迎えるこの川柳コンクールは、今年からサラリーマンに限定せず広く応募を募ったため、「2022年サラッと1句!私の川柳コンクール」と呼び名が変わった。サラリーマンの悲哀が働き手全体に及んでいると見るべきか、はたまた、正規・非正規の格差を反映しているのか、名称変更の理由はわからない。昨年(第35回)の第1位(「8時だよ!昔は集合今解散」)と比べてみると、生活一般を反映する川柳が増えた印象がある。

 川柳は時代を反映した「笑い」の一形態である。昨年度は、COVID19(コロナ感染症)が会社社会に与える影響が上位8位までを占め、残り2句はデジタル化によるものであった。それに対して、今年(第36回)では、コロナ関連は3句で、そのうち2句は10位と9位だった。そのほかは、デジタル、宅配便、健康等多様化している。生活領域に拡大したことがわかる。生活・世相のつらさ、苦しさを柔らかなユーモアに包んで悲哀(ペーソソス)として読み手に感じさせる「支援」ユーモア、共感のユーモアを生み出している。

「炎天に米買ふといいふ一仕事」(『明治大正時事絵川柳』91頁)

 これは大正7年(1918年)富山を端緒として始まった、価格の引き下げや安売りを要求した抗議運動が全国に展開した米騒動の原因となった、米価の値上げを描写した川柳である。米騒動は知っていても暴動は8月の真夏に起きていたことはあまり知られていない。第1次世界大戦後(1914-17)日本はシベリア出兵を企画した。コメの需要が戦争によって高まると予想した地主や商人が米を買い占めたため、価格が高騰した。それが背景にある川柳である。ちなみに、この川柳には戯画のような挿絵が付されている。炎天下に米を買う人の行列を描き「白米一升三十五銭」の立て看板が見える。この年、1月には1石(100升)15円(つまり1升15銭)だった米価が、7月には20円(1升20銭)、8月には大阪堂島の米市場で1石50円(1升50銭)にまでなったといわれる。当時のサラリーマンの月収が18円から25円であり、コメの消費量も(データはないが)今より多いとすれば、高騰といってよい。1石は約30㎏として、一般家庭で仮に1月10㎏消費するなら、1石50円は3か月分に相当する。月収20円の社会人では月に8割が米代に消える。

 『明治大正時事絵川柳』の作者のひとり西田當百(1871-1944)は、この本の「自序」で「寸鉄人を刺す底の痛烈な時代風刺は、短詩形の川柳が最も勝っている」(旧字は新字に変えた)と述べている。そこにある挿絵もまた、川柳の絵解きであるが、また諷刺画の一つとして見ることができる。

 諷刺画と諷刺性の強い川柳の「合わせ技」をもった川柳と、画というビジュアル援護もなく孤軍奮闘する第36回の第1位川柳と比べるのは酷だったかもしれない。しかし、1年間に2度も3度もほぼすべての財やサービスが値上げされ、それに対して賃金・給料は上がっていない。だから、節約せざるを得ない(値上げに見合った賃金上昇があれば節約などしない)。この第36回第1位川柳は、値上げに窮しているだけでなく上がらぬ給料にも窮している生活を描いている。また、税金、社会保障といった公的な料金も「広く浅く」をスローガンに値上げしている。こちらは、原油価格や電気料金の高騰といった理由なく「問答無用」に上がる。庶民の生活はもはや限界にきている、その叫びがこの第36回第1位の川柳なのである。

 しかし、ここに格差という現象がこの川柳理解の広がりを阻んでいる。給与や所得も賃上げが可能であった企業などにあっては、また雇用形態の差によって所得の格差は厳然と存在するようになった。

 早朝の情報番組で、この旧「サラリーマン川柳」を紹介していた。その紹介の仕方が楽しく明るく伝えていた。ニュース番組の出演者たちは金持ち?と一瞬思った。彼ら彼女らも給与所得者、サラリーパーソンだろうに。どうも生活一般・サラリーマン生活の「悲哀」にピンと来ないように見えた。もはや階層としての「サラリーマン」は存在しなくなったことを川柳の悲哀と諷刺が受け入られなくなったことからはっきりと示されたような気がした。

国防より子育てを

 ある日の毎日新聞のコラムで、今国会(第221国会)での野党の質問の仕方を責めていた。「国防と野党の戦術」(『風知草』)と題するそのコラムは、戦争を絶対にしないということを首相に確約させようとしていた野党の質問は、不意の敵襲の備えを知りたい国民の意向を無視した愚問であると断じた.戦闘行為一般の是非善悪を問いただしても意味はない、野党に国会戦術の修正を求めるというのがこのコラムの主張だ。続いて野党の国会戦略の概要は「防衛予算倍増よりも子育て予算倍増」であり、これは問題設定が誤っているとする。防衛増税を批判するなら、継戦能力の実情を問い、米軍との役割分担について反撃能力を論点とするときに問うべきだとする。理由は軍事技術の問題を具体的に問えといっているのであろう。以下首相の答弁にも問題があると論じ、与野党党首に軍事の専門家=「軍人」の声に耳を傾けよと提言する。軍事が論点なのだから、その内容について論じていけということのようだ。

 はっきり言って、要約するのに苦労した。論拠が論者の特定の価値判断を背景としており、個別的でとても普遍性とまでは望まないまでも共通性を感じないからだ。個々の表現が意味するものや論理の筋道がここまでかけ離れているのかと思うと悲しくなった。

 たとえば、このコラムでは、元自衛官が著した書の一説を引き、「軍人(=自衛官)を政治から一切切り離した戦後体制の矛盾」表現を論者の主張の根拠として使っている。

 技術論は確かに専門家の領分であろう。しかし特に軍人の声を聴けというのは、ともすれば文民統制を捨てよと言っているにも等しい。専門技術の議論をしているときに、俯瞰した立場でそれらを論ずることができるのは、必ずしもその領域の専門家が優れているわけではない。紺屋の白袴、あるいは岡目八目の例えもある。専門性の深みにはまって周囲が見えなくなる「専門バカ」は誰にでも起こりうる。軍事の専門はそうならないというはない。軍事の実務家・実践家が軍人であるなら、現実に惑溺して、その現実座標自体が動くことに気がつかなかったがゆえに80余年前の破滅をもたらしたのではなかったのか

 「国家防衛と子育て。てんびんにかけて選べる話ではない。」と言い切るコラム氏の主張を仮に認めるとしても、それがなぜ「弾薬やミサイルの備蓄状況、弾薬庫の立地問題」「新たに買う武器の基本」になるのか。「憲法国際法の問題(これも何を意味するのかがよくわからない)ではなく」となるのか。子育てを国民の生活と読み替えれば、予算配分の問題として「国家防衛と子育て」は天秤にかけることになるのではないか。だから増税の問題という論点で論じていくのではないか。それには、なぜ今国家防衛のための予算増額が必要かを問うことは常に野党にとって必要なのではないか。それは、具体的な具時の技術論に終始することは、何のために国防費の増額が必要なのかというメタ認識に常に立ち返るために必要な問いである。反対、批判はそれ自体が主張であり、「代案」である。提案に乗ることだけが議論ではない。問題の解決に至らないという主張に対しては、誰にとっての問題解決なのかと問いたい。「子育てか戦争か」「増税よりも行革を」を「大ざっぱな議論」とみなして、メタ認知を嫌がるコラム氏の姿勢がなぜ生じているのかに目を向ける必要がある。

 かつて、戦後女性に参政権が「認められた」ときに、「参政権よりも藷を」と女性たちは叫んだという(宮本、1946)。宮本は、庶民が見たことも聞いたこともない人たちによって、どこかで運営されてきた、その結末が敗戦で、食うに事欠く状況を生んだ。そんな「政治」に用はない、道理にかなった筋道で生活ができる「政治」を求め、自ら作り出そうとしていると述べる。このような約80年も前の指摘がいまだ有効であるのは、どうしたことか。庶民は日常にしか関心がない「意識が低い」とコラム氏は見ているのは80年前の議論である。

 また台湾脅威とウクライナ戦争は直接には結びつかず、そもそも台湾有事において台湾を日本が防衛するということにはつながらないと主張する人もいる(亀山、2023)。そうであるなら、コラムの論旨の性急さはある意味頷ける。つまり、問題解決の阻害を叫ぶのは怪しげな提案を認めさせたいレトリックにすぎない。

 

亀山陽司、2023、『ロシアの眼から見た日本 国防の条件を問い直す』NHK出版新書。

神島二郎、1982、『磁場の政治学 政治を動かすもの』岩波書店

宮本百合子、1946、『私たちの建設』 実業之日本社

スマホ嫌いと技術決定論

 スマホを初めて買いに行ったとき、パスワードを入れる作業があり、キーを何度もタッチする方法がうまくいかず入力の仕方で何度も間違えた。そのとき、そばにいた若い男の店員が、私のもたもたしたしぐさに業を煮やして、「違う」「違う」といって私のスマホを取り上げようとした。自分ができるからといって威張るなと思い、「自分でできなきゃ意味ないだろう」と思わず言ってしまった。その店員はいつまでもこんな客に付き合っていたら、自分の売り上げに響くとでも思ったのだろう。結局この方法ではできなかった。最初に応対してくれた人が「フリック入力」という「あ段」の一つを十字にスライドさせると「あ行」が出てくる方法を教えてくれた。この方法でやったらうまくできた。(いまだに、キータッチでは入力できない。また、スマホでもパソコンでもパスワードでよく使う「点」(・・・・)を数えるのがとても苦手だ。)

  スマホは正直嫌いだ。私はスマホで電話を受けることができない。「スマホお助け本」でもあまりに基本的に見えるためか出ていない。「スライドして受信」と画面指示が出たのでスライドして安心していたら、いつまでたっても相手の声が聞こえてこない。そのうちどこを押したかわからないが切れてしまった。そのためこちらからかけなおす羽目になった。(こうしたことが何度もある)。

 パソコンで調べてみると、電話の受け方は機種によって異なり、それで苦労している人が多くいることが、「スマホの使い方」の「コメント欄」を見てわかり「自分だけではない」ことに安心するとともに、少し気になったことがあった。

 それは、電話の受け方をアイコンだけで説明し、その方法も「便利なように」変えているらしいとブログ作成者は答えていたことにあった。その人も困っているようだった。スマホ初心者にわかるように書かれたブログを作っているのだから、その作成者は熟練者なのだろう。しかし、スマホ初心者も熟練者も「使いにくい」と感じているのに、「使いやすく改変している」のはだれのためなのだろうか。

 「スマホ 嫌い」でGoogle検索してみると、上位に以下のような項目が登場する。

意外だったのは、スマホを購入した時に検索した4年前に比べて、スマホ嫌いを肯定するサイトもちらほら散見されることだ。スマホ肯定派のサイトは例えば次のようなものがある。

「要注意!? スマホが嫌い・否定したい人の3大心理

https://lifehackdou.jp/archives/185

「あなただけじゃない!スマホが苦手な理由4つとその対処法」

https://rakuraku-info.jp/articles-for-people-who-are-not-good-at-smartphones

スマホがいらない心理15選!苦手な中学生や社会人が持たない生活は?」https://belcy.jp/56377

 これらのスマホへの認識は、「スマホは主要なコミュニケーションツールであり、多くの人が肯定的にとらえている」、「スマホ全盛の時代」、「スマホはなくてはならない暮らしの一部として,さらに浸透していくはずです。時間はかかるかもしれませんが,今は「スマホなど必要ない」と言い張っている人たちも,いずれ利便性を知ったり必要に迫られたりして,スマホを持たざるを得なくなる日が来ることでしょう」、などという表現に端的にみられている。

 つまり、スマホ利用は「世界の大勢」であり抗うことのできないものである。という見方である。スマホ嫌いは少数派であり、いわば「多数決の論理」で、スマホ利用に屈するべきである、ということを述べている。ここには少数の尊重はない。技術には多様性の尊重はないと言っているに等しい。

 スマホ嫌い(苦手)な人間から見れば、スマホ肯定派は、スマホという技術が社会(文化・生活・政治・経済などあらゆる人の営み)の変化を決め、歴史を動かすという考え=「技術決定論」(柴田、2020、p61)に基づいているように見える。そんなオーバーな、と思うかもしれない。しかし、「無意識のバイアス」や「マイクロアグレッション」にみられるように、「些細なことは政治的なこと」なのだ。スマホ肯定者は、苦手な人に「教えてあげる」とするその姿勢が必ずしも苦手な人の立場に立っているとは思えない。「共感」ではなく「教官」だ。自分たちの意図を相手に押し付けて意のままにするというのは権力行使であり、そこに支配と服従の関係が生ずる。これは政治状態にほかならない…といえば言い過ぎとしても。

 ちなみにスマホが主要なコミュニケーションツールだというのは技術決定論でないとすると,なぜそれを強いるのか、冒頭に述べた表現では「誰にとって便利になった」のか、を問うてみよう。スマホ肯定派は、スマホは人を強いる手段として使っているとともに、それが使っている者にとって効率的、利益を生むからという経済効率性の論理だけが社会を動かすのだという経済決定論スマホを利用しているのだろう。「民主主義は工場の門前で立ちすくむ熊沢誠)よろしく、「企業や経済の前で民主主義は立ちすくむ」のか。

 熊沢誠,1993『新編 民主主義は工場の門前で立ちすくむ』(現代教養文庫)。

 柴田清,2020,「技術とは何か」(藤垣裕子責任編集『科学技術社会論の挑戦1 科学技術社会論とは何か』東京大学出版会所収)55頁ー82頁。

 

共産党除名事件と『バトルスタディーズ』と聖書 「姦通の女」(ヨハネによる福音書第8章3~11節)

いささか旧聞に属するがとある事件のことについて書いておきたい。

1はじめに

 日本共産党が党改革を訴えた本を出版した党員を除名処分にしたという事件を聞いて今週(2・9)発売の『コミック・モーニング』(2023年11号)で掲載されていた『バトルスタディーズ』(なきぼくろ・作)と聖書の「姦通の女」(ヨハネによる福音書第8章3~11節)を思い出した。

2「日本共産党除名事件」

 日本共産党は、2月5日、党員で安保外交部長経験のあるジャーナリストの松竹伸幸氏を除名した。日本共産党は、委員長公選制を唱えた『シン・日本共産党宣言』(文春新書、2023年)を出版したことが契機となって、党の決定に反する主張を外部で行ったことが党に対する敵対行為とみなし、党規約違反として松竹氏を処分した。党首公選制も、民主集中制という党の原則と相いれないという。日本共産党の幹部はもとより党員からも松竹氏を支持する声はこの事件から3か月半近くたっても聞こえてこない。異論を認めない頑な集団というイメージ形成に自らかかわっている共産党は情けない。事実、4月5月の地方選挙は、敗北といってよい結果だった。同時にここぞとばかり日本共産党を攻撃する輩が登場することも、ネット時代の「炎上」騒ぎよろしく、予想されたとはいえあまりに陳腐だ。

 確かに異論を認めない集団というイメージをより強くさせてしまうのは問題だ。どうして、日本共産党は内部から批判されると頑なになってしまう(ように見える)のだろうか。所詮「人間万事色と欲」であって、それを批判するにはクリーハンドどころか、無誤謬な清廉潔白さが求められる…のだろうか。これでは日本共産党は「神」にならないと世の中を批判できなくなる。

 日本共産党が目指すように見える「神」(共産主義が神に近づくというのも皮肉だが)でも、もっと人情味ある対応をする。ヨハネによる福音書第8章3~11節の「姦通の女」の一節だ。律法学者たちが姦通をした女性を連れてきて、イエスに処遇を問う。律法では姦通者は死罪だ。そこでイエスは、次のように言う。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

すると、集まった人たちは、だれもこの女性に石を投げることなく立ち去った。そのあとイエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と語る。

 

3『バトルスタディーズ

 とある大阪の強豪野球部の話である。2年前に部員の喫煙で夏の予選を辞退したこの学校に新たな問題が生じた。野球部1年生の跳ねっ返り部員が,喫煙をした。それをいさめるため、3年生のレギュラー部員が一緒に煙草を吸う?その処遇で3年生たちが議論するときに、主人公の狩野笑太郎が、こう語る。「自分にとって都合の悪い人間排除するてお前ら神か」「半透明(ホログラム)の楽園でも創る気け?」「さっきから人のこと臭い汚いほざいとるけど お前らそんなにキレイんけ?」 ここで「次週に続く」(2月9日現在。もっとも掲載誌『モーニング』(講談社)の作品は必ずしも次週掲載されるとは限らない)。次の掲載で、笑太郎の主張に仲間はほぼ同意する。そして夏の予選を迎える。

4「罪を犯したことのない者が,…石を投げなさい」「じゃあ、みんなで石を投げよう」

 正直、日本共産党の事件を知って、最初に思い出したのは『バトルスタディーズ』のほうだった。それも笑太郎の最後の「お前らそんなにキレイんけ?」だけだった。事件に対する日本共産党の対応に目が奪われていた。しかし、あらためて読み直してみると、聖書の「罪を犯したことのない者」も「お前らそんなにキレイんけ?」の「お前ら」も、日本共産党の内部の人たちだけではなく、ほかの野党や与党、さらに日本共産党に失望したとする人たちをも指していて、この人たちすべてに投げかけられていることに気づいた。自分たちの抱えている問題を棚上げして、あるいは、自分たちは清廉潔白の万能な「神」として共産党は松竹氏を、ほかの与野党日本共産党「支持」者は日本共産党を、それぞれ「姦通者」として叩いていたのだ。批判は自らも含めた視点で行わねばならない。そうでなければただの攻撃だ。

 しかし、批判について聖書でイエスが述べた「了解」がすでになかったとしたら、狩野笑太郎は次の掲載時にボコボコにされ、「姦通者」は石をみんなから投げられるかもしれない。「批判を許さない社会」という時代の雰囲気があることを指摘している人たちがいる(例えば、野口、2018;山腰、2018)。統一地方選挙結果とG7の広島に戦争当事者を招いたことが内閣支持率を上昇させた現在(5月23日)、有権者は人間ではなく「神」になり、また、批判に対して、支持者に対して真摯に向き合わなかった日本共産党も「神」になってしまった。

日本共産党も批判を許さない政党となるなら、それはかつて来た道を辿ることになりかねない。

野口雅弘、2018 「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく(野口 雅弘) | 現代ビジネス | 講談社(1/4) (gendai.media)

(2023/05/23 閲覧)

山越修三、2018 「言いっぱなし文化 批判というコミュニケーションの危機」『朝日新聞』2018年8月22日(朝刊)

 

電気料金の値上げに思う:電力会社・政府・メディア

 経済産業省は16日、電力会社大手7社が申請した家庭向け電気料金を6月から14%から42%値上げする申請を認可した。17日の新聞各紙は、大半が値上げの詳細と経緯について語っていたが、読者が本当に知りたいことはそれだけだったのだろうか。

 政府は、6日の閣議で値上げについての「査定方針案」を決めた。それに基づいて経済産業相の名で値上げの正式認可がされた。あくまで電力会社は「私人」であり、その法律行為を補充する形成的行為と講学上は定義される。あくまで経済産業省は本来電力会社が自分で決められる価格の値上げについて、その行為の公益性を考えて補充する、というのが「認可」である。電力価格について、それを利用する市民は、価格の良し悪しを見分ける知識や情報がない。加えて、提供する電力会社との契約を破棄しておいそれとほかの電力会社に乗り換えることもできない。(経営規模の格差に伴う事実上の寡占状態)。たとえば、2021年から2022年にかけての電力業界の売上高では、東京電力の3099万円を筆頭に、大手電力会社7社が上位6位までを占め、ほかの電力会社は辛うじてJ-POWERが1億846万円で7位に入っているに過ぎない。全販売電力量に占める新電力(電力7社以外の電力会社)のシェアは約2割(2021年9月)であった。その他、加入手続きや電気料金等の要素を加味すれば、電気を使う一般家庭にとっては、大手電力会社の影響力は大きい。

 それゆえ、公的な役割を持つ政府が介入して、市民と電力会社の間にある情報格差を埋めるべく「認可」という形で「品質保証」をする。それが、法律行為の補填という意味である。はたして、経産省あるいは政府閣議はどこまで「公益性」を考慮したのだろうか。また、情報格差を是正するように働いたのであろうか。

「認可」という講学上の言葉の意味から、政府の役割について述べたが、「公共性」という言葉からもコトバからも、政府、企業(電力会社)、およびマス・メディアの「社会的責務」を問う音ができる。

 電力使用はほぼすべての国民に関わることであり、商品・サービスの多くの領域の赤く設定に影響を与えるものである。そうであるならば、なぜ値上げするのか、その根拠は何か、を、紙面の限界、ほかのニュースたる者との比較はあるにせよ、詳細に懇切丁寧に解説する必要が新聞各紙には求まれる。対象とした新聞5紙においても、値上げの原因に言及hしていたのは2~3行とごくわずかであり、全く言及していないものもあった。言及されていても、ウクライナ情勢、原油価格の高騰などステレオタイプ化した表現で「整理」されているだけであり」、電気料金とこれらの原因と目される要素が具体的」にどのように関わっているのかにしは紙面を割いていない。ウクライナ情勢、原油価格の高騰といった要因もその内容は常に変化している(戦況や原油価格が1年以上も変化しないとは考えられない)。むしろステレオタイプ化がこうした要素あるいは以外の電力料金への影響因子を吟味・検討する(原油供給が高どまりする傾向があるとしたら、国民にとって危険の少ない代替エネルギーによる発電の供給や開発について提言することなど)ことを怠っているのではないか。

 国民に対して、「電気が値上げされる、さて準備しましょう」だけでよいのか。準備といっても、節電方法はたかが知れているし、生産の面でも、すでにシステム化されているなかで、その仕組みを変えることは容易ではない。しかも、6月からの値上げ(支払い請求は7月)ではあまりに性急すぎないか。

 マス・メディアは機能として「環境の監視」として世の中の出来事を人々に知らせ、「環境に反応する際の社会的諸部分の相互の関連付け」(=「世論形成」への素材提供と考え方の提供)を持つといわれる。ここにおいてマス・メディアは多くの人に情報を伝え、考える素材を提供するという意味で「公共性」をもつ。

多くの人の利害に関わる事柄が持つ性質を「公共性」とよぶならば、電力会社の事業は「公益性」を持つものであるし、「公益性」を持つ出来事を扱うのが、政府・官僚の行政が行う仕事であることも論を俟たない。加えて、「公益性」を扱うマス・メディア報道は、そのことを重視する必要があろう。マス・メディアが不特定多数の人々に情報を提供することを生業にしている以上、その仕事に公益性を意識することは避けられない。いいかえれば、多くの(国民レベル)の)読者・視聴者の関心を考慮すべきであろう。

 電力は国民にとって「ライフライン」ともよべるべきものである。その供給源が事実上限られた企業に任されている状況では、普通の取引以上に、売り手への信頼を担保させる必要がある。しかし買い手である国民にはそのイニシアティブはもちにくい。そこでこの取引に公的機関である政府が介入すべきあるが、政府は、電力会社の度重なる不祥事(小売部門の新電力が有する顧客情報を大手電力会社が不正に閲覧していたこと、事業者向け電力に関して大手電力会社が価格カルテルを結んでいたこと、など)に対して国民の納得するような政策を提示したのであろうか。また、マス・メディアも当該不祥事について価格化値上げ報道のときに、どの程度紙面や放映時間を割いたのであろうか。残念ながら5月17日の新聞紙面で「不祥事」について言及した新聞はほとんどなかった。

 メディアの置かれている環境や、ニュース価値などの事情を斟酌するにしても、「環境の監視」にすらならない報道とはいったい何なのだろうか。