雑誌の将来

 近所の図書館に行くと,古い(といっても3年くらい前のものだが)雑誌をただでもらえるように陳列していた。「ご自由にお取りください」と。図書館は,資料を保存してあるところで,欲しいときに見る(複写できる)ところと思っていたが,そうではないらしい。かつて(40年ほど前),大学の先生が母校の図書館に本を借りに行って,断られたことを,「あそこ(先生の母校の図書館)は貸し出しよりも保存に重きを置いているようだ」と語っていたのを思い出すと,大学と公立と,図書館は異なるとはいえ,隔世の感がある。どこの図書館も「民営化」よろしく,「費用対効果」を考えて資料を「処分」しているようだ。もっとも,従来は秘密裡に「処分」されていたのが,公然と「処分」(=リサイクル?)されるよう並べられるというのは,透明化が進んだと言えるのかもしれない。

 たしかに,マンガ雑誌などは買い始めるとあっという間に部屋を占領する。読み返すこともあまりしない。雑誌は読み捨てられる運命にある。昔からそうだった,と言えばそうだろう。作り手のほうも,書籍,新聞や放送と異なって,限られた読者に向かって限られた内容のものを伝える。戦前ならば検閲の対象となっても,また時代を問わず儲からなくなれば,サットと店をたたむことができる。そのフットワークの良さが,新聞・放送による報道と異なって,特殊な視点で編集し,読者にインパクトを与えることに寄与してきた。

 たとえば,雑誌研究者の吉田則昭は雑誌の特性を以下のように述べている。

 

「大衆文化の担い手である雑誌は,深い洞察と解説の提供機関として,また必要な専門情報の提供機関として,社会的ニーズに裏打ちされ,小規模ながらメディアの一角を担ってきたとされる。新聞が報道を旨とし,市民社会に広く一次情報を提供するのを使命とするのに対し,雑誌は特定のテーマに興味を有する限定された層を対象に,より深く理解できるよう編集加工された情報を提供している。…」(吉田・岡田,2012,12頁)。

 

「広く浅く」が(日本の)新聞・放送メディアであるのに対して,「狭く深く」が雑誌メディアの読者層から見た特性であるということか。これに倣えばソーシャル・メディアは,「浅く狭く」ということになろうか。しかし,ソーシャル・メディアでは発信者は顔見知りに伝えるつもりでも,結果として不特定多数の人に発信者の情報が触れてしまうこともあるのでそう単純ではないかもしれない。

 また,吉田則昭さんの説明は,雑誌の「理性的な部分」を強調したものにみえる。雑誌が「欲望の媒体」と呼ばれ,大衆の感性を反映するメディアであるという点がこの吉田さんの説明では,見えにくい。一方,新聞であっても,偉そうなことは言えない。かつて「与太記事」(佐藤卓己)と呼ばれた歴史をみればーーそこから信用を得るために努力を新聞社が積み重ねてきたとしてもーーどうであろうか。そして,フェイクニュースという言葉の登場以降,報道そのものが,真実を伝えている(ことができる)のか問われている。

 とはいえ,「水清ければ魚棲まず」の文句の通り,エロ・グロ・ナンも人々の欲望および不平・不満の解消(ガス抜き)とみなせる。そして,社会の秩序維持に役立っているといえる。女性雑誌にみられるような,読者層を設定してそれぞれの読者の望むものに合わせて雑誌を刊行するという「セグメント化」を例にとってみても,大衆化の中でも,その好みは様々であるという意味で雑誌は「社会的ニーズ」を満たしているともいえる。

 清濁併せて人間の生活が営まれているとみれば,雑誌が多様な「社会のニーズ」を充足させる働きをしているというのは感性面も含めた話であると理解する方がよいのだろう。

 たとえば,1950年から60年代にかけて,貸本・赤本漫画を主にターゲットにした「悪書追放運動」があった。その嚆矢となったのは週刊誌であった(雑賀,2013)。漫画を有害とみなす「社会のニーズ」に応えたという意味で,雑誌は「専門情報」(闇取引を彷彿させる物語)を提供したという点で,特性を発揮したといえる。

 こうした「社会のニーズ」にソーシャル・メディアなどのマス・メディアに代わるメディアは対応することができるのだろうか?

 

吉田則昭,2012「雑誌文化と戦後の日本社会」(吉田則昭・岡田章子編『雑誌メディアの文化史 変貌する戦後パラダイム』所収,9頁―38頁。)

佐藤卓己,2019『流言のメディア史』岩波新書

雑賀忠宏,2013「『マンガ』を描くことと『マンガ家』――職業としての「マンガ家」像をめぐってー」(茨木正治編『マンガジャンル・スタディーズ』臨川書店 所収)192頁―219頁。

支援ユーモアと諷刺

心理学者の上野行良は、ユーモア刺激をその目的に併せて「攻撃」、「娯楽・滑稽」、「支援」の3つに分けている(上野、2003)。この中で、最後の「支援」的ユーモア刺激は、自らもユーモアによって支援することを狙うものである。第2次大戦時にロンドンが空爆されたて建物を破壊された百貨店が「本日より入り口を拡張しました」という看板を出したエピソードを例として挙げている(上野、2003、54頁)*。他者と気持ちを分け合って支えあうのが「支援」ユーモアである。価値を同じくする仲間に気持ちを分け合う。しそこから、自らと気持ちを分け合う=自分を鼓舞する見方が生まれる。これは、自らを対象化する視点を持つことに他ならない。

では、攻撃すべき相手と気持ちを分け合うにはどうするか。カートゥーン(一コマ漫画)が持つ,滑稽性で愚かさを共有するという方法がある。自分も相手も同じ人間という「ヒューマニズム」に依拠した支援ユーモアを用いたカートゥーンを描ければ(岡本一平のような)可能であろう。ただしそれには限界がある。ここでは別の見方を紹介したい。美学、現代アーツが専門とされる伊藤亜紗の著述(伊藤2015)を手掛かりにして考えてみよう。

伊藤は、「多様性」を前提にして、そこからどのような社会を構築していくかということを考えている。同じ人間でも身体はすべて違っており、違う世界を生きているという理解をする。たとえば、視覚障害者は、声の反響で今いる部屋の大きさや人の数が大体わかる、スポーツ観戦に触覚や振動を用いるなど、視覚とは異なる方法で世界を認知していることがわかったと述べている。さらに伊藤は、吃音者や聴覚障碍者認知症を発症した人たちと接して世界の認識のしかたや身体の使い方が異なることを見出す。また、視覚障碍者にとってユーモアは「生き抜くための知恵」である(伊藤、2015)とも述べている。伊藤は障害者のユーモアについて,障害者が自ら障害そのものを笑う「ユーモア」を取り上げている。不自由な環境の意味を変えることで生き抜こうとする、そのための武器が「ユーモア」なのだとする。回転寿司を食べるときとか、レトルトパックを開けるときにミートソース味かクリームソース味かわからないときに、どちらが(ネタは何か)は、ロシアンルーレットであると語る「ユーモア」は単なる強がりの表示や苦労に対する敬意とは思えないと伊藤は語る

このような「多様性」に触れることは、健常者にとっても「カオス」に接することだと伊藤は言う。自分の想定している見方や考え方と異なっているしぐさや発言に出くわすと、そのしぐさや発言がなんであるかを、自分のストックしてある情報から選び出すのに時間がかかる。その時間を節約するためにステレオタイプを使うから、「多様性」は面倒だという意識が健常者のほうに生まれる。それが、伊藤のいう「福祉的な見方」というものだろう

この「福祉的な見方」いいかえれば「健常者」が「上から目線」を脱して障碍者の「ユーモア」を使うことはできないだろうか。つまり、他者にもわかる、かつ驚きや関心を最初は他者である読み手に感じさせるけれども、次に描き手も読み手もともに喜びをもたらすような内容の諷刺が生まれれば、と思う。

ユーモアと諷刺

 ユーモアは、笑いを起こすもとになるものの一つと思っていた。心理学者の上野行良さんによれば、おもしろい、おかしい(笑いを誘う)気持ちをユーモアとしている(上野,2003)。そのユーモアを生み出すものをユーモア刺激とよぶそうだ。上野さんは、ユーモアを目的によって3つに分けている。人を攻撃するものを「攻撃的ユーモア」、人を楽しませるものを「遊戯的ユーモア」、人と気持ちを分かちあって支えるものを、「支援的ユーモア」と分ける。風刺やブラックユーモアは「攻撃的」、だじゃれ、どたばた喜劇は「遊戯的」の例である。

人を励まし、自分と「つながる」、そうしたことを目的(結果)として笑いやおかしさを誘うユーモアを、視覚・聴覚障害者に見出すのが、伊藤亜紗さんの本だ(伊藤、2015)。人と人とがつながるには、まず違いを認め、そこから共有できるものを探し出していく。自分を基準にして、自分の見方・考え方でほかの人たちと共有しよう、つながろう、違いを探そうとしがちだ。そうした悪い意味での「自己本位」的な姿勢を崩してくれるのが伊藤さんの本だ。では「支援的ユーモア」とはどのようなものだろうか。上野さんの本を手掛かりにして考えてみたい。

上野さんによれば、3人の心理学者のユーモアに関する研究から引き出している。諷刺も、あまり評価はしていないけれども、ユーモアの類型(攻撃、支援、娯楽)の一つと位置づけているのを知りほっとした。というのは、諷刺を何とかユーモアにむすびつけようとしていたときだったので,諷刺とユーモアについての本を初めて読んだとき、ユーモアは人を和ませるもので、諷刺は攻撃性が強くユーモアとは違うとあり、がっかりしたことがあったからだ。

さらに、上野さんは、自分を失わないで済む力を与えてくれるのがユーモアであるという。困ったことや悩みに溺れることなく、その問題から距離を置くようにできることが「支援的ユーモア」だということを、最初「支援」とあったので、他者を助けるユーモアとは何だろうと思っていたが、他者はもちろん自分をも「支える」ユーモアだったことがわかって、なるほどと思った。さらに、ユーモア刺激について、支援、遊戯、攻撃の類型はあくまで程度であり、諷刺であっても人を貶めるだけはなく、支援や娯楽の要素も持ちうるものがあることを示唆していることが読み取れた。諷刺は爆弾やミサイルのような相手を破壊する「武器」ではない。人の「弱さ」「醜さ」「ズルさ」を見せて,それがその人だけでなく,自分たちにもあることを示すのが諷刺だ.いいかえれば,相手も自分と同じ人間であることを互いに気づくようにするための「武器」なのだ。この相対化,対象化が読む人聞く人見る人に伝わらないと諷刺は「支援」ではなく,単なる相手を破壊する「攻撃」のユーモアになってしまう.

また,自分は人を楽しませようとしたり、人の困っている状況を救おうとして「ユーモア」をつかって笑いを取ろうとしても、かえって、人を悲しませたり、怒らせたりすることもある。「ウケない」ユーモアとはそうしたことをさすのだろう.そして「支援」そのものも,誰が誰のためにどのように「支援」するかで支援の意味が異なってくる.政治家が子ども食堂で食事をしてその姿をネットに挙げることがあるが、それを見た人は熱心な支持者でない限り鼻白む。白けた視聴者は政治家の「活動」が「支援」よりも自らの「票集め」に見えて,政治家自身の自己満足になっているように見える。

では、自己満足による「笑い」も「支援」ユーモアになるといえるだろうか。つまらない笑いでも、それが繰り返されればそのうちに自然におかしくなっていく、いわゆる「面白」の境地について柳田国男は「山の神とオコゼ」で書いている。「面白」の境地になること、つまり自他ともに何らかの気持ちを共有することができるときに、つまらないユーモア刺激も、おかしさをともに持つようになるのであろう。そこには「支援」のユーモア刺激が「笑い」の刺激のなかに含まれていなければならない。子供食堂で食事をするところを自慢げにツイッターに挙げる姿をみた政治家自身が、「一体オレは何やってんだ」とつぶやくなら、「支援」ユーモアをもつ諷刺になるかもしれない。

上野行良、2003,『ユーモアの心理学』サイエンス社

伊藤亜紗、2015、『目の見えない人は世界をどのように見ているか』光文社新書

 

 

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書 2015年)を読む

 先日盲目の若者を紹介された。背は高く、がっしりとした体格だったので意外に思えた。「障害は個性だ」という言葉は知っていた。江戸期の国学者である塙保己一(1746-1821)の逸話(和学講談所で講義をしていたとき、ろうそくの火が消え弟子たちが慌てたところ、塙保己一は「目あきというものは不自由なものだ」と冗談を言った)も中学で習った。だから、多様性には理解があるものだと思っていた。

 しかし、何のことはない。いざ盲目の若者に対峙したら、私の「多様性認識」は極めて薄っぺらいものだった。盲目の人=弱者=小柄な人という「思い込み」があった。身体に「障害」のある人は社会的に弱者だから、保護する必要があると勝手に思い込んでいた。テレビ番組で、番組の本筋とは異なる発言をした人に、「いろいろな意見があるとは思いますが…」と司会者がいって、その人の発言を「無視して」進行する場面を見て鼻白む思いをしていたが、自分も同じだった。

「思い込み」について、もう一つ例を挙げよう。「画像や映像は一見すると見たままだから、誰でも同じように「見てわかるものだ」、というのは思い込みだ。画像や映像は多様な読みができる。見る人の立場や考え方、あるいはその場の状況によって画像や映像の見え方・感じ方、表現の仕方が違う(日本のプロ野球で、読売ファンの得意先の人と観戦しているとき、たとえ、自分が相手チームの贔屓であったとしても、そのチームの応援をすることは難しいだろう)。Seeing is believing(百聞は一見に如かず)は、画像・映像メディアを語る時には「見ることは信ずることである」と直訳したほうがよいといわれる。と、したり顔で語ってきた。

 しかし、目の見えない人はどのように写真やテレビ映像、パソコン画面を見ているのだろうか。自分が前に述べた「多様な読み」をする主体に、目の見えない人は含まれていただろうか。正直、全く想定していなかった。

 伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書 2015年)を書棚から引っ張り出してきて慌てて読んでみた。まさに「世界の別の顔」が見える。この本は」目の見えない人(視覚障害者)及びその関係者に伊藤さんがインタビューをしてまとめたものだ。「音の反響具合からカーテンが開いているかどうかを判断」する。「手で『読ん』だり、耳で「眺め」たり」する。「障害者」は「健常者」が使っていないものを使っている人たちであり、そこから、自分の体の別の姿を知ることだと、伊藤さんは書いている。情報獲得のルートの大半である視覚感覚を取り除くということによって、自らの身体のことを知る、そのため、目の見えない人にインタビューする…これは、目が見えないことを、目を閉じてみることとは違う。視覚情報の遮断ではなく、視覚抜きで成り立つ身体そのものをみようとすることだ、と伊藤さんはいう。こうして「広い意味の身体論」が構成される。その発想に驚かされた。

 さらにここから、」同じ世界でも見え方=「意味」(客観的な内容である「情報」ではなく、受け手が具体的な文脈で理解する情報)が違ってくる。この「意味」を通じて得られる世界(「環世界」)の違いをもとにして、目の見える人が見えない人と関わっていくことは、「情報」を目の見えない人に提供するという福祉的な関係ではない、と伊藤さんは述べる。努めて自らの身体から生まれる世界とは違った世界を知る、そしてそれをもとにして自らの身体から得られる世界(観)を知る「広い意味の身体論」なのだ。

 では、目の見えない人は画像や映像をどう見ているのか。

伊藤さんは、見えないことでコミュニケーションのあり方も変わるという。「言葉を使ったコミュニケーション」と「見ること」との関係を扱った「第4章 言葉」の中で、美術鑑賞について語っている。目の見える人が絵画を言葉(「情報」と「意味」からなる)で語り、それについて目の見えない人たちが仲間で声を出し合って、やりとりをしながら作品を鑑賞する。つまり作品について、各人の「意味」を共有する。頭の中で作品を作り直していくのが美術鑑賞だとする。大切なことは、見えないという「障害」が、見ることそのものを問い直し、それによって人々の関係を動かしたことにある。欠けているのではなく、新たに作り出すことに「障害」の「意味」を捉え直すことにある。見え方がさまざまだという点で止まっていた画像・映像についての私の見方に新たな刺激を与えてくれたのが伊藤さんの本だった。

インタビューへの違和感

朝日新聞が「オピニオン」欄で不定期に掲載している「インタビュー」が気になる。

まるで、討論をけしかけているようだ。「インタビュー」とは話し手の言いたいことを聞き出すことと思っていたので、意外だった。そして読み進むうちに不快になった。聞き手は話し手から何を聞き出そうとしたのかが見えないのだ。

 「夫婦別姓 闘った40年」(2023年1月28日朝刊13面)という見出しで、(元選択的夫婦別姓訴訟弁護団長 榊原富士子さん)をインタビューしている。40年近く夫婦別姓訴訟弁護団長として闘ってきた榊原さんが昨年団長を退いた。その思いを榊原さんに語ってもらっていると思って読んだ。榊原さんが活動の中でのつらさや苦労を語り始めると、聞き手の挑発的な問いかけが増えてくる。夫婦同姓が合憲とされた判決がこたえたとのべると、「(夫婦同姓は)違憲を確信していた?」と聞いたり、当初提訴に後ろ向きだったと語ると「(裁判を)引き受けたくなかったということですか」、苦労をみせず明るくふるまっていることを「たかが名字だから」といえば「夫婦別姓の訴えを軽く見るほうにも作用する」と絡んだりする。最後には「いまだに選択的夫婦別姓は導入されていません。『敗北の40年』ですか」と問う始末だ。聞き手は榊原さんから何を聞きたかったのか。訴訟運動の過程で苦労したことや、そしていまだ夫婦同姓を強要する裁判所や人々の意識(榊原さんは夫婦別姓にしろといっているのではない。選択の自由を与えよといっているのだが、それすら認めない司法や社会の意識)の壁の厚さを前にして絶望感におそわれることもあったであろう。自らを奮い立たせようとするために、「裁判での勝訴」や「『たかが名字』とみなして明るく活動しようとするのだ、と読めた。

 にもかかわらず、聞き手は運動の明るさや「たかが名字」という言葉尻をとらえて、運動の効果の評価につなげてしまう。「たかが名字」とは提訴をする人たちの内部のスローガンであり、運動の外の人たちへ向けての表現ではない。また、「敗北の40年」という言葉は、裁判結果だけしか見ない、40年の活動を無にするに等しい言説だ。これでは話がかみ合わないのも当然だ。榊原さんは議論をするためにインタビューを受けたのではない。40年の選択的夫婦別姓制度をもとめる訴訟の難しさ、つらさを聞いてほしかったのではないか。聞き手は、榊原さんの発言に寄り添うことが、榊原さんの意見に同調することになり「報道の客観性」を損なうと考えたのかもしれない。しかし、それはあまりに浅薄な考えであった。榊原さんの話の中で、地検の裁判長から「この裁判は運動のため、宣伝のためではないか」という旨の揶揄を受けたというのがあった。きっと、このインタビュー後も榊原さんは、その地裁の裁判長から受けた気持ちと同じようなことを感じただろう。そうだとするとそれはとても悲しいことだ。

 この「インタビュー」の聞き手は、本当に榊原さんの話を聞いていたのだろうか。たしかに、訴訟のつらさや裁判結果の(敗訴)のつらさを当事者が第三者に伝えることは難しい。そして、裁判は演劇であり、法律はモザイクだという人もいる。裁判は真実が何かを求めるものではなく、どのように演ずるのか、どういったら裁判官に共感してもらって自分たちの主張を汲んだ「心証」を引き出せるか、という一種の「ゲーム」であるともいえる。理性が感性や感情より優位にあるとする空間が裁判である。もしかしたら、聞き手は榊原さんが「ゲーム」をしていて、その感想を聞きたかったのかとも思えた。

同じことを話すことはいけないことか?

 人と話をしていて,「それ前に言っていた」,「前に聞いた」と言われることが多くなった。朝ご飯に何を食べたか(パンだったか,ごはんだったか,うどんだったか…)を忘れることは,再生ができないことであり,それに対して,ご飯を食べたこと(食事時にこれから食べるごはんは朝なのか昼なのか…,朝ご飯を食べたのかどうか…)を忘れることは再認ができなくなっている,という。これは,記憶を学ぶときによく言われることである。それにあてはめてみれば,同じことを言ったことを忘れていることは,再認ができなくなっていることになる。再生は,度忘れともいい,誰にでも起こることだが,再認ができないというのは,記憶の機能が衰えている,つまり老化が進んでいるということになる。

 このように,「同じ話をする」ことは,年寄り=老化の特徴だとみなされやすい。いままで「できたこと」が「できなくなっている」ということと関係づけられて語られる。まるで1㎞を10分で歩くことができたのが,15分,20分かかるようになるというような,身体の変化と同じように語られる。「同じ話をする」ことは,生き物としての衰えと同じことなのだろうか。また、「同じ話をする」人間は社会にとって、生産性の低い意味のないものなのだろうか。

 こうした問いに、全く違った視点を与えてくれる記述に出会った。『驚きの介護人類学』(医学書院,2012年)という書物である。

 「気鋭の民俗学者」であった著者六車由美は大学を辞し,老人ホームで働き始める。そこで気づいたことの数々をこの書に記している。

「おなじことを何度も問いかける」老人に出会った六車は,最初は戸惑いつつも,なぜ,同じことを繰り返して尋ねるのだろう」ということを考え直す。普通,同じことを語るのは痴呆の症状とみなされ(「ボケが始まった」)、日常の生活ができなくなる人に近づくしるしだとしてそれ以上のことは考えなくなる。六車は、人類学者ギアーツの「厚い記述」と「薄い記述」の考え方を当てはめる。ここでは、「記述」を表現と置き換えれば、「厚い記述」とはWikipediaによれば、「状況をまったく知らない人でもその行動がよく理解できるように、行動そのものだけではなく文脈も含めて説明すること」(https://ja.wikipedia.org/wiki/厚い記述)を指すとされる。「文脈を含めて説明する」とはなにかというと、「(起こった出来事や行動が)、どうしてそういった行動をするのか、その行動にどういう意味があるのかなどの解釈を含めて「厚く」記述するということ」「旅する応用言語学www.nihongo-appliedlinguistics.net/wp/archives/104)とされる六車は「同じことを繰り返し問う」老人を観察し、その人について、ほかの介護者の人たちからの情報を受け取る。そこから、「同じ問いを繰りかえす」人のなかにその人がここで「生きる方法」を知る。同じ問いによって相手に同じ答えを求めて、いつもと同じ答えが相手から発せられるのを聞いて安心する。そこにその人が生きてきた生き方が肯定される。いいかえれば、自分がこれまで生きてきてきた方法は間違ってなかった、正しかった、さらには生きていて意味があった、ということを自ら確認することにつなげるための「同じ問いの繰り返し」だったのだ。

 他者を知るというのは、こんなにも大変なことなのか。気安く「他者・相手の立場にたって」などと言ってきた自分が恥ずかしくなった。また、「文脈」を語るということを自分の側からしか考えていなかったことにも気づかされた。また、他者を知ることと同じくらい自分についても考えたことがあるのかにも気づかされた。「同じことを繰り返し語る」ことを老いとして、さらにその老いというものを単に機能の低下としてのみとらえてきたという自分の見方がなぜ作られたのか、そしてそれがどのくらい頑ななものなのかを考えるきっかけにしたいと思う。