同じことを話すことはいけないことか?

 人と話をしていて,「それ前に言っていた」,「前に聞いた」と言われることが多くなった。朝ご飯に何を食べたか(パンだったか,ごはんだったか,うどんだったか…)を忘れることは,再生ができないことであり,それに対して,ご飯を食べたこと(食事時にこれから食べるごはんは朝なのか昼なのか…,朝ご飯を食べたのかどうか…)を忘れることは再認ができなくなっている,という。これは,記憶を学ぶときによく言われることである。それにあてはめてみれば,同じことを言ったことを忘れていることは,再認ができなくなっていることになる。再生は,度忘れともいい,誰にでも起こることだが,再認ができないというのは,記憶の機能が衰えている,つまり老化が進んでいるということになる。

 このように,「同じ話をする」ことは,年寄り=老化の特徴だとみなされやすい。いままで「できたこと」が「できなくなっている」ということと関係づけられて語られる。まるで1㎞を10分で歩くことができたのが,15分,20分かかるようになるというような,身体の変化と同じように語られる。「同じ話をする」ことは,生き物としての衰えと同じことなのだろうか。また、「同じ話をする」人間は社会にとって、生産性の低い意味のないものなのだろうか。

 こうした問いに、全く違った視点を与えてくれる記述に出会った。『驚きの介護人類学』(医学書院,2012年)という書物である。

 「気鋭の民俗学者」であった著者六車由美は大学を辞し,老人ホームで働き始める。そこで気づいたことの数々をこの書に記している。

「おなじことを何度も問いかける」老人に出会った六車は,最初は戸惑いつつも,なぜ,同じことを繰り返して尋ねるのだろう」ということを考え直す。普通,同じことを語るのは痴呆の症状とみなされ(「ボケが始まった」)、日常の生活ができなくなる人に近づくしるしだとしてそれ以上のことは考えなくなる。六車は、人類学者ギアーツの「厚い記述」と「薄い記述」の考え方を当てはめる。ここでは、「記述」を表現と置き換えれば、「厚い記述」とはWikipediaによれば、「状況をまったく知らない人でもその行動がよく理解できるように、行動そのものだけではなく文脈も含めて説明すること」(https://ja.wikipedia.org/wiki/厚い記述)を指すとされる。「文脈を含めて説明する」とはなにかというと、「(起こった出来事や行動が)、どうしてそういった行動をするのか、その行動にどういう意味があるのかなどの解釈を含めて「厚く」記述するということ」「旅する応用言語学www.nihongo-appliedlinguistics.net/wp/archives/104)とされる六車は「同じことを繰り返し問う」老人を観察し、その人について、ほかの介護者の人たちからの情報を受け取る。そこから、「同じ問いを繰りかえす」人のなかにその人がここで「生きる方法」を知る。同じ問いによって相手に同じ答えを求めて、いつもと同じ答えが相手から発せられるのを聞いて安心する。そこにその人が生きてきた生き方が肯定される。いいかえれば、自分がこれまで生きてきてきた方法は間違ってなかった、正しかった、さらには生きていて意味があった、ということを自ら確認することにつなげるための「同じ問いの繰り返し」だったのだ。

 他者を知るというのは、こんなにも大変なことなのか。気安く「他者・相手の立場にたって」などと言ってきた自分が恥ずかしくなった。また、「文脈」を語るということを自分の側からしか考えていなかったことにも気づかされた。また、他者を知ることと同じくらい自分についても考えたことがあるのかにも気づかされた。「同じことを繰り返し語る」ことを老いとして、さらにその老いというものを単に機能の低下としてのみとらえてきたという自分の見方がなぜ作られたのか、そしてそれがどのくらい頑ななものなのかを考えるきっかけにしたいと思う。