インタビューへの違和感

朝日新聞が「オピニオン」欄で不定期に掲載している「インタビュー」が気になる。

まるで、討論をけしかけているようだ。「インタビュー」とは話し手の言いたいことを聞き出すことと思っていたので、意外だった。そして読み進むうちに不快になった。聞き手は話し手から何を聞き出そうとしたのかが見えないのだ。

 「夫婦別姓 闘った40年」(2023年1月28日朝刊13面)という見出しで、(元選択的夫婦別姓訴訟弁護団長 榊原富士子さん)をインタビューしている。40年近く夫婦別姓訴訟弁護団長として闘ってきた榊原さんが昨年団長を退いた。その思いを榊原さんに語ってもらっていると思って読んだ。榊原さんが活動の中でのつらさや苦労を語り始めると、聞き手の挑発的な問いかけが増えてくる。夫婦同姓が合憲とされた判決がこたえたとのべると、「(夫婦同姓は)違憲を確信していた?」と聞いたり、当初提訴に後ろ向きだったと語ると「(裁判を)引き受けたくなかったということですか」、苦労をみせず明るくふるまっていることを「たかが名字だから」といえば「夫婦別姓の訴えを軽く見るほうにも作用する」と絡んだりする。最後には「いまだに選択的夫婦別姓は導入されていません。『敗北の40年』ですか」と問う始末だ。聞き手は榊原さんから何を聞きたかったのか。訴訟運動の過程で苦労したことや、そしていまだ夫婦同姓を強要する裁判所や人々の意識(榊原さんは夫婦別姓にしろといっているのではない。選択の自由を与えよといっているのだが、それすら認めない司法や社会の意識)の壁の厚さを前にして絶望感におそわれることもあったであろう。自らを奮い立たせようとするために、「裁判での勝訴」や「『たかが名字』とみなして明るく活動しようとするのだ、と読めた。

 にもかかわらず、聞き手は運動の明るさや「たかが名字」という言葉尻をとらえて、運動の効果の評価につなげてしまう。「たかが名字」とは提訴をする人たちの内部のスローガンであり、運動の外の人たちへ向けての表現ではない。また、「敗北の40年」という言葉は、裁判結果だけしか見ない、40年の活動を無にするに等しい言説だ。これでは話がかみ合わないのも当然だ。榊原さんは議論をするためにインタビューを受けたのではない。40年の選択的夫婦別姓制度をもとめる訴訟の難しさ、つらさを聞いてほしかったのではないか。聞き手は、榊原さんの発言に寄り添うことが、榊原さんの意見に同調することになり「報道の客観性」を損なうと考えたのかもしれない。しかし、それはあまりに浅薄な考えであった。榊原さんの話の中で、地検の裁判長から「この裁判は運動のため、宣伝のためではないか」という旨の揶揄を受けたというのがあった。きっと、このインタビュー後も榊原さんは、その地裁の裁判長から受けた気持ちと同じようなことを感じただろう。そうだとするとそれはとても悲しいことだ。

 この「インタビュー」の聞き手は、本当に榊原さんの話を聞いていたのだろうか。たしかに、訴訟のつらさや裁判結果の(敗訴)のつらさを当事者が第三者に伝えることは難しい。そして、裁判は演劇であり、法律はモザイクだという人もいる。裁判は真実が何かを求めるものではなく、どのように演ずるのか、どういったら裁判官に共感してもらって自分たちの主張を汲んだ「心証」を引き出せるか、という一種の「ゲーム」であるともいえる。理性が感性や感情より優位にあるとする空間が裁判である。もしかしたら、聞き手は榊原さんが「ゲーム」をしていて、その感想を聞きたかったのかとも思えた。