伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書 2015年)を読む

 先日盲目の若者を紹介された。背は高く、がっしりとした体格だったので意外に思えた。「障害は個性だ」という言葉は知っていた。江戸期の国学者である塙保己一(1746-1821)の逸話(和学講談所で講義をしていたとき、ろうそくの火が消え弟子たちが慌てたところ、塙保己一は「目あきというものは不自由なものだ」と冗談を言った)も中学で習った。だから、多様性には理解があるものだと思っていた。

 しかし、何のことはない。いざ盲目の若者に対峙したら、私の「多様性認識」は極めて薄っぺらいものだった。盲目の人=弱者=小柄な人という「思い込み」があった。身体に「障害」のある人は社会的に弱者だから、保護する必要があると勝手に思い込んでいた。テレビ番組で、番組の本筋とは異なる発言をした人に、「いろいろな意見があるとは思いますが…」と司会者がいって、その人の発言を「無視して」進行する場面を見て鼻白む思いをしていたが、自分も同じだった。

「思い込み」について、もう一つ例を挙げよう。「画像や映像は一見すると見たままだから、誰でも同じように「見てわかるものだ」、というのは思い込みだ。画像や映像は多様な読みができる。見る人の立場や考え方、あるいはその場の状況によって画像や映像の見え方・感じ方、表現の仕方が違う(日本のプロ野球で、読売ファンの得意先の人と観戦しているとき、たとえ、自分が相手チームの贔屓であったとしても、そのチームの応援をすることは難しいだろう)。Seeing is believing(百聞は一見に如かず)は、画像・映像メディアを語る時には「見ることは信ずることである」と直訳したほうがよいといわれる。と、したり顔で語ってきた。

 しかし、目の見えない人はどのように写真やテレビ映像、パソコン画面を見ているのだろうか。自分が前に述べた「多様な読み」をする主体に、目の見えない人は含まれていただろうか。正直、全く想定していなかった。

 伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書 2015年)を書棚から引っ張り出してきて慌てて読んでみた。まさに「世界の別の顔」が見える。この本は」目の見えない人(視覚障害者)及びその関係者に伊藤さんがインタビューをしてまとめたものだ。「音の反響具合からカーテンが開いているかどうかを判断」する。「手で『読ん』だり、耳で「眺め」たり」する。「障害者」は「健常者」が使っていないものを使っている人たちであり、そこから、自分の体の別の姿を知ることだと、伊藤さんは書いている。情報獲得のルートの大半である視覚感覚を取り除くということによって、自らの身体のことを知る、そのため、目の見えない人にインタビューする…これは、目が見えないことを、目を閉じてみることとは違う。視覚情報の遮断ではなく、視覚抜きで成り立つ身体そのものをみようとすることだ、と伊藤さんはいう。こうして「広い意味の身体論」が構成される。その発想に驚かされた。

 さらにここから、」同じ世界でも見え方=「意味」(客観的な内容である「情報」ではなく、受け手が具体的な文脈で理解する情報)が違ってくる。この「意味」を通じて得られる世界(「環世界」)の違いをもとにして、目の見える人が見えない人と関わっていくことは、「情報」を目の見えない人に提供するという福祉的な関係ではない、と伊藤さんは述べる。努めて自らの身体から生まれる世界とは違った世界を知る、そしてそれをもとにして自らの身体から得られる世界(観)を知る「広い意味の身体論」なのだ。

 では、目の見えない人は画像や映像をどう見ているのか。

伊藤さんは、見えないことでコミュニケーションのあり方も変わるという。「言葉を使ったコミュニケーション」と「見ること」との関係を扱った「第4章 言葉」の中で、美術鑑賞について語っている。目の見える人が絵画を言葉(「情報」と「意味」からなる)で語り、それについて目の見えない人たちが仲間で声を出し合って、やりとりをしながら作品を鑑賞する。つまり作品について、各人の「意味」を共有する。頭の中で作品を作り直していくのが美術鑑賞だとする。大切なことは、見えないという「障害」が、見ることそのものを問い直し、それによって人々の関係を動かしたことにある。欠けているのではなく、新たに作り出すことに「障害」の「意味」を捉え直すことにある。見え方がさまざまだという点で止まっていた画像・映像についての私の見方に新たな刺激を与えてくれたのが伊藤さんの本だった。