ユーモアと諷刺

 ユーモアは、笑いを起こすもとになるものの一つと思っていた。心理学者の上野行良さんによれば、おもしろい、おかしい(笑いを誘う)気持ちをユーモアとしている(上野,2003)。そのユーモアを生み出すものをユーモア刺激とよぶそうだ。上野さんは、ユーモアを目的によって3つに分けている。人を攻撃するものを「攻撃的ユーモア」、人を楽しませるものを「遊戯的ユーモア」、人と気持ちを分かちあって支えるものを、「支援的ユーモア」と分ける。風刺やブラックユーモアは「攻撃的」、だじゃれ、どたばた喜劇は「遊戯的」の例である。

人を励まし、自分と「つながる」、そうしたことを目的(結果)として笑いやおかしさを誘うユーモアを、視覚・聴覚障害者に見出すのが、伊藤亜紗さんの本だ(伊藤、2015)。人と人とがつながるには、まず違いを認め、そこから共有できるものを探し出していく。自分を基準にして、自分の見方・考え方でほかの人たちと共有しよう、つながろう、違いを探そうとしがちだ。そうした悪い意味での「自己本位」的な姿勢を崩してくれるのが伊藤さんの本だ。では「支援的ユーモア」とはどのようなものだろうか。上野さんの本を手掛かりにして考えてみたい。

上野さんによれば、3人の心理学者のユーモアに関する研究から引き出している。諷刺も、あまり評価はしていないけれども、ユーモアの類型(攻撃、支援、娯楽)の一つと位置づけているのを知りほっとした。というのは、諷刺を何とかユーモアにむすびつけようとしていたときだったので,諷刺とユーモアについての本を初めて読んだとき、ユーモアは人を和ませるもので、諷刺は攻撃性が強くユーモアとは違うとあり、がっかりしたことがあったからだ。

さらに、上野さんは、自分を失わないで済む力を与えてくれるのがユーモアであるという。困ったことや悩みに溺れることなく、その問題から距離を置くようにできることが「支援的ユーモア」だということを、最初「支援」とあったので、他者を助けるユーモアとは何だろうと思っていたが、他者はもちろん自分をも「支える」ユーモアだったことがわかって、なるほどと思った。さらに、ユーモア刺激について、支援、遊戯、攻撃の類型はあくまで程度であり、諷刺であっても人を貶めるだけはなく、支援や娯楽の要素も持ちうるものがあることを示唆していることが読み取れた。諷刺は爆弾やミサイルのような相手を破壊する「武器」ではない。人の「弱さ」「醜さ」「ズルさ」を見せて,それがその人だけでなく,自分たちにもあることを示すのが諷刺だ.いいかえれば,相手も自分と同じ人間であることを互いに気づくようにするための「武器」なのだ。この相対化,対象化が読む人聞く人見る人に伝わらないと諷刺は「支援」ではなく,単なる相手を破壊する「攻撃」のユーモアになってしまう.

また,自分は人を楽しませようとしたり、人の困っている状況を救おうとして「ユーモア」をつかって笑いを取ろうとしても、かえって、人を悲しませたり、怒らせたりすることもある。「ウケない」ユーモアとはそうしたことをさすのだろう.そして「支援」そのものも,誰が誰のためにどのように「支援」するかで支援の意味が異なってくる.政治家が子ども食堂で食事をしてその姿をネットに挙げることがあるが、それを見た人は熱心な支持者でない限り鼻白む。白けた視聴者は政治家の「活動」が「支援」よりも自らの「票集め」に見えて,政治家自身の自己満足になっているように見える。

では、自己満足による「笑い」も「支援」ユーモアになるといえるだろうか。つまらない笑いでも、それが繰り返されればそのうちに自然におかしくなっていく、いわゆる「面白」の境地について柳田国男は「山の神とオコゼ」で書いている。「面白」の境地になること、つまり自他ともに何らかの気持ちを共有することができるときに、つまらないユーモア刺激も、おかしさをともに持つようになるのであろう。そこには「支援」のユーモア刺激が「笑い」の刺激のなかに含まれていなければならない。子供食堂で食事をするところを自慢げにツイッターに挙げる姿をみた政治家自身が、「一体オレは何やってんだ」とつぶやくなら、「支援」ユーモアをもつ諷刺になるかもしれない。

上野行良、2003,『ユーモアの心理学』サイエンス社

伊藤亜紗、2015、『目の見えない人は世界をどのように見ているか』光文社新書