支援ユーモアと諷刺

心理学者の上野行良は、ユーモア刺激をその目的に併せて「攻撃」、「娯楽・滑稽」、「支援」の3つに分けている(上野、2003)。この中で、最後の「支援」的ユーモア刺激は、自らもユーモアによって支援することを狙うものである。第2次大戦時にロンドンが空爆されたて建物を破壊された百貨店が「本日より入り口を拡張しました」という看板を出したエピソードを例として挙げている(上野、2003、54頁)*。他者と気持ちを分け合って支えあうのが「支援」ユーモアである。価値を同じくする仲間に気持ちを分け合う。しそこから、自らと気持ちを分け合う=自分を鼓舞する見方が生まれる。これは、自らを対象化する視点を持つことに他ならない。

では、攻撃すべき相手と気持ちを分け合うにはどうするか。カートゥーン(一コマ漫画)が持つ,滑稽性で愚かさを共有するという方法がある。自分も相手も同じ人間という「ヒューマニズム」に依拠した支援ユーモアを用いたカートゥーンを描ければ(岡本一平のような)可能であろう。ただしそれには限界がある。ここでは別の見方を紹介したい。美学、現代アーツが専門とされる伊藤亜紗の著述(伊藤2015)を手掛かりにして考えてみよう。

伊藤は、「多様性」を前提にして、そこからどのような社会を構築していくかということを考えている。同じ人間でも身体はすべて違っており、違う世界を生きているという理解をする。たとえば、視覚障害者は、声の反響で今いる部屋の大きさや人の数が大体わかる、スポーツ観戦に触覚や振動を用いるなど、視覚とは異なる方法で世界を認知していることがわかったと述べている。さらに伊藤は、吃音者や聴覚障碍者認知症を発症した人たちと接して世界の認識のしかたや身体の使い方が異なることを見出す。また、視覚障碍者にとってユーモアは「生き抜くための知恵」である(伊藤、2015)とも述べている。伊藤は障害者のユーモアについて,障害者が自ら障害そのものを笑う「ユーモア」を取り上げている。不自由な環境の意味を変えることで生き抜こうとする、そのための武器が「ユーモア」なのだとする。回転寿司を食べるときとか、レトルトパックを開けるときにミートソース味かクリームソース味かわからないときに、どちらが(ネタは何か)は、ロシアンルーレットであると語る「ユーモア」は単なる強がりの表示や苦労に対する敬意とは思えないと伊藤は語る

このような「多様性」に触れることは、健常者にとっても「カオス」に接することだと伊藤は言う。自分の想定している見方や考え方と異なっているしぐさや発言に出くわすと、そのしぐさや発言がなんであるかを、自分のストックしてある情報から選び出すのに時間がかかる。その時間を節約するためにステレオタイプを使うから、「多様性」は面倒だという意識が健常者のほうに生まれる。それが、伊藤のいう「福祉的な見方」というものだろう

この「福祉的な見方」いいかえれば「健常者」が「上から目線」を脱して障碍者の「ユーモア」を使うことはできないだろうか。つまり、他者にもわかる、かつ驚きや関心を最初は他者である読み手に感じさせるけれども、次に描き手も読み手もともに喜びをもたらすような内容の諷刺が生まれれば、と思う。